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卒業レポート

academic

2021.04
小宮貫太郎
第46回生 - DePauw University

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1.専攻分野について…当初の目標とその進捗・成果、財団の支援があったからできたこと、今後の進路と目標

2020年12月をもって、米国の4年制大学・DePauw Universityを卒業しました。経済学学士としての飛び級卒業、そして3カ国5媒体での学生ジャーナリストとしての経験…。幼少期の海外経験も、十分な学資もなかった私がこれらを成し遂げることができたのは、私の可能性を信じ、3年半にわたって支えて下さった江副記念リクルート財団のおかげです。まず何より、これまでのご支援に厚く御礼申し上げます。

卒業にあたり、最初の奨学生応募の際や更新審査で提出した志望動機書を参照しながら、在学中の活動・成果について振り返りたいと思います。

私に正規留学を決意させた決め手は、学びたい分野以前に、リベラルアーツという教育システムそのものでした。高校時代、先生の講義を拝聴し黒板を写すだけの授業に辟易していた私。たまたま参加した説明会で海外大という選択肢を知り、NPO法人留学フェローシップのサマープログラムで、キラキラに輝く先輩たちに憧れました。世界の知性と少人数クラスで活発に議論しながらの学びにときめきを感じたのが決定的なきっかけになりました。

アメリカの大学に出願するには、自分がどういう人間か・何をしたいのかを明らかにする、エッセイというものを書く必要があります。自己分析を重ねるなかで、10歳から17歳まで続けた日本の新聞社の「こども記者」活動で芽生えたジャーナリズムへの夢を追うことから目を背けてはいけないと悟りました。

ジャーナリストとは、(比喩的な意味ですが)名刺一つで誰とでも会え、どこへでも行け、どんな新しいことでも学ぶことができるというある種の特権を持った職業であり、好奇心の塊のような自分には、その土台にある倫理観も含め天職ではないかと昔から感じていました。出願に当たっては特に、2016年の夏に起きた「パナマ文書」報道に感化され、国際ジャーナリストになることを目標に据えました。

高校3年生当時の自分は、奨学金応募書類にこう書いていました:「リベラルアーツ校での4年間は、広い視野と深い専門性、現代では避けられない国際性と多様性の感覚を培うことのできる、まさに自分が求めていた理想的な環境であり、言語の壁を乗り越えてでも行く価値のあるものであると信じている。また後述のように、将来はジャーナリストとしての経験を重ね、多極化と混迷の続くであろう現代社会が抱える問題に一石を投じたいという大きな夢と情熱を持っている。」

そしてその夢の実現のためには「①人間としての知的成熟」「②[英語圏の]ジャーナリズムの技術」「③強みとなる専門分野」の3つが必要であり、だからアメリカのリベラルアーツ大に行きたいのだ、と結論付けました。

進学先については、小規模かつ留学生への奨学金が潤沢な中西部の大学に絞り、専攻・副専攻とは違うもののメディア志望者向けプログラムのあったDePauwに進学することにしました。

中西部・インディアナ州の州都から1時間ほど離れた町にあるDePauwは、アメリカの典型的な田舎の私立カレッジです。生徒は学部生のみの2,000人ほどで、約30の専攻が用意されています。しかし「コミュニケーション学」はあるものの、ジャーナリズムはありませんでした。

専攻であろうとなかろうと、自分にとって、ジャーナリズムの基本は書くことという思想がありました。とにかくライティングだけは頑張ろう、成功体験を作ろうと思い必死で勉強した結果、全1年生を対象にしたアワードで最優秀論文賞をいただくことができました。その後、大学新聞でデザイナーを経て記事を書くようになったり、またニュース執筆に特化した授業を受けたりもしました。

1年目の後半、私が専攻に選んだのは経済学で、それは記者として強みとなる専門分野をつけるにあたって、つぶしのきく社会科学を学ぼうという考えからでした。また、パナマ文書のように世界中のジャーナリストが協力して権力者の不正を暴く「国際調査報道」という分野に憧れ、その基本である”Follow the money”(カネの流れを追うこと)に精通しようと、経済学専攻に決めたのです。

ジャーナリズムのために学び始めた経済学。しかし、課程を進めリテラシーがついてくると、逆に経済やビジネスの視点から見たニュースメディアの構造的な課題に問題意識を持つようになりました。

学外の現場を巡って得た、様々な学びが契機になりました。例えば、国内の英字新聞やニュース企業でのインターンを通じて、伝統的な記者の仕事にはいわゆる「ブルシット・ジョブ」的側面がなくもないと気づいたこと(もちろんそうでない部分も、働き方に左右されない報道の本質的な価値もあると信じています)。一方、北京大学でのサマースクール中に見学した、1日5,000本の記事制作を自動化するAIといったテクノロジーの破壊的な力。そして何より、世界最高峰の規模と質を誇ったはずの米メディアが、片やローカルニュースの砂漠化、片やトランプ大統領と「ポスト真実時代」のメディア不信と、地殻変動的な大転換期にあるのを目の当たりにしたことなどです。

自分の中の「ジャーナリズム」と「経済」の間の興味の方向が逆転し、2年目の後半にかけて、メディアの構造的課題を解決するという命題に没頭していきました。ブロックチェーン技術でニュース流通の制度設計を目指すベンチャーの論文の翻訳なども手がけていました(このプロジェクトは結局失敗に終わってしまいましたが)。

この時期(2018年秋)には奨学生更新審査がありました。その書類には以下のように書いています:「以前は漠然と『嘘がまかり通るような社会をどうにかしたい』と考えていたが、その背景には『テクノロジーの発展がもたらした、マスメディアを前提としたビジネスモデルの崩壊』という構造的な問題があることがわかってきた。またいわゆる『フェイクニュース』についても、経済的インセンティブが実は大きな背景となっていることを知った。…このような現状認識をもとに考えると、『国際的な調査報道を行うジャーナリストになる』というのは既存システムの中での個々の活動であり、『ジャーナリズムの普遍的価値の再興』を達成するには力不足であるように思われる。むしろ、自分が最終的に目指すべきなのは、『ニュースメディアを取り巻くシステムの変革』なのではないかと思うようになった。」

また折しも、いわゆるカルチャーショックの4段階における幻滅期に入り、田舎のキャンパスでの刺激の少ない大学生活に飽き始めた頃でした。ここにきてDePauwに入学したことへの後悔を感じるようになり、都市部の総合大学への編入の準備を始めました。ゲーム理論やメカニズムデザインなど、リベラルアーツカレッジでは学べないような高度な経済学理論に関心が芽生えたことも理由の1つです。

ところが、蓋を開けてみると編入出願の結果は全て不合格、または厳しい条件付き合格でした。留学生が奨学金付きで編入することのハードルがそもそも高いという事情もありますが、一番の原因は、日々の授業にもついていけなくなるほどの精神的なバーンアウトで、出願書類をきちんと仕上げられていなかったことでした。一時は奨学生資格を失うことも恐れるほどに精神がすり減ってしまいました(なんとか成績要件はクリアしており、更新が叶ったことは本当に不幸中の幸いでした)。

失意の中、2年目の夏休みに入ってすぐ旅行に向かったタイで、私は東南アジアという新興地域における社会の急激な変化(モビリティやフィンテックを始めとするテクノロジー受容、勃興する地方都市の中産階級、多様なジェンダー、表層的にではあるが感じた国内の格差、気候変動への対応など)に心を奪われます。「リープフロッグ(蛙飛び)現象」という言葉もありますが、従来のパラダイムにおいて発展の遅れていた・あるいは中進国として停滞していた社会が、最新技術によって一気にアップデートするさまは圧巻で、それはメディアにおいても起きると考えました。

ここでもっと学びたいと思った私は、大学の単位互換インターンシップ制度を活用し、休学ではなくカリキュラムの一環として、マレーシアの報道機関で3年目の秋を過ごしました。そこは東南アジアで最も先進的と言える1999年創業のオンラインメディアで、社員の方からデータジャーナリズムを教わる傍ら、英語記事の取材や写真撮影、またWeb開発まで幅広く経験を積んだ3ヶ月でした。

その後2020年初頭にアメリカの大学に戻りますが、アジアへの情熱は続きました。 経済系通信社の東京支局インターン時に書いた音声翻訳機の特集記事で、同年2月、アメリカ海外特派員クラブから日本人初の学生賞を受けたのですが、その受賞スピーチでも「アジアで次世代のジャーナリズム作りに貢献したい」と夢を語りました。

一方、2020年のコロナ禍中はアメリカに残りました。夏から秋にかけて、ニューヨークにオフィスのある投資専門誌や、世界のテクノロジーを扱う非営利メディアに所属、リモートでインターンを続け、危機の時代における経済のあり方を記者として報じてきました。以前の活動も合わせると、書いてきた英語記事は80本近くになります。また、大学内の学生新聞では「プロダクトマネージャー」を名乗り、Webサイトの刷新やEメールニュースレターの新設など、パンデミックで紙媒体が休刊したタイミングでやるべきデジタル化を進めました。

卒業を迎えたいま振り返ると、学術面では経済学専攻としては主だった実績を残せなかった代わりに、ジャーナリズム分野の実践に明け暮れた3年半でした。早期卒業については1年次から明確に目指していたわけではありませんが、大学の外での活動から得られる学びの方が多かった自分にとっては、とにかく早く社会に出るというこの選択は結果的に合っていたと思います。

もちろん、入学前に憧れていたアメリカの大学の教育スタイルは非常にやりがいがあり、また一般的な意味でのリベラルアーツ=幅広く、しかし時に深い教養も身についたと思います。その上で、自分の進路選択の本質をまとめるとすれば、「大学をプラットフォームとして使った」ということではないかと思います。やりたいことが決まっていても(いなくても)、学外での時間を増やすにあたっても(あるいは大学内のリソースの活用を目指す場合でも)、個々人のその時々の状況や意志を柔軟に受け止めるプログラムに身を置くことができたことは非常に幸運でした。

一度は他大学への編入も考えたものの、コロナ禍で地方生活の価値が上がったこともあり、今はDePauwに進学したことを後悔していません。時節柄、晴れ舞台の現地での卒業式に出席することは叶いませんが、例えばウォールストリートジャーナル中興の祖と呼ばれた名記者バーニー・キルゴアのように、DePauw出身のジャーナリストとしていつかは母校に錦を飾りたいと思っています。

コロナ禍の激動、あるいは正常化・次の時代への道筋の中で大学を卒業することになり、正直に言えば、まだ直近のキャリアや方向性は定まっていない状況です。しかし、10歳から大学卒業まで続けてきたジャーナリズムという活動の、その広義の(かつ本質的な)意味=人が必要とする情報を、正確に・わかりやすく・独立した立場からその人に伝えるという仕事に生涯を捧げたいという気持ちは変わりません。

2.専攻分野以外について…人として成長できたと思うこと

前項が思いのほか長くなったので、ここは2つに絞ってお伝えします。

大学生活を通して、あるいはそこに至るまでの出願準備期間から卒業までを俯瞰して、一番に感じるのは、レジリエンスがついたということです。

過去5年間の自分を振り返れば、基本的には「アメリカの大学に進学する」という非常に恵まれた境遇を生きることができ(重ね重ね、財団のご支援に感謝します)、自分の夢が具体化していく過程を体験することのできた、本当に幸せな学生生活だったと思います。

ただその中でもやはり辛い時期はありました。最も切実だったのはお金の問題で、本奨学金合格以前に別の奨学金に不合格になったことや、また2年次のスランプ中ほとんど恐慌状態で更新審査に臨んだこと。心機一転をかけた編入に失敗したこともあり、またこれまでたくさんのインターンシップや仕事の不採用通知を受けてきたこともあります。米国の特に保守的な地域における文化やマイノリティへの視線に戸惑い傷ついたことも数知れずありました。

おそらく、このようなストレスに拠り所なく晒され続ければ、どんな人でも参ってしまうと思います。自分も複数回、軽くですがバーンアウト期を経験しています。ただそうした時期を乗り越えたという自信や自分についての知恵がつき、高校生の時とは比べ物にならないぐらい打たれ強くなったと思います。この跳ね返りの強さについては非常に成長を感じます。

またもう1点、進んでギブをするようになったと感じます。“Give and take”のgiveですが、必ずしも見返りのためだけのものではなく、とりあえず身近な人のニーズに応えるという行為です。特に、ある情報を欲している人を、それを持っていそうな人にとりあえずオンラインで繋げるということを日常的に行うようになりました。

これは一般的に年をとってきたことで立場が変わったという理由もあると思います。他にもジャーナリズムという、なかなか多くの人が目指すわけではないニッチな分野でロールモデル不足に悩み、一方、連絡したらすぐコーヒーチャットで相談に乗ってくれるようなフレンドリーな方々に助けられてきたという経験がそうさせるのかも知れません。

どんな分野でも、人から尊敬される人はフレンドリーで、連絡が早く、顔が広いといった共通点があると思います。いわゆる良きリーダー像的なものもこういった特徴を反映しているはずです。

自分はこれまで、組織を率いるような立場を経験したことはあまりありませんが、ジャーナリズムの分野でいえば、良き編集者やメンターの理想像のような方々にお会いする機会に恵まれてきました。これからキャリアを重ねる上で、そんな方々のように人を助けられるような人間になりたいと願っています。

3.後輩たちへのメッセージ

私自身の留学のきっかけは、先輩たちの眩しい姿でした。そしてまた、お世話になったNPO法人留学フェローシップは、次世代への「恩送り」を大事にしていたことを思い出します。

卒業したいま、自分も次の世代の方々にインスピレーションを与えることができたならば、これほど幸いなことはありません。

特にもし国際的なジャーナリズムの分野に興味がある、あるいは悩んでいる方がいれば、江副奨学生かどうか・留学中かどうかを問わず、ぜひご相談に乗りますので、ここからご連絡ください:https://kantarokomiya.com/ja/contact-me/

そして江副記念リクルート財団奨学生の皆さま、数年にわたる留学やトレーニングの日々の中で、挫けそうになることは多々あると思います。このコロナ禍のような不測の出来事がまた起きることもあるでしょう。

そんな時、周りの環境から一歩身を引いて、ぜひ自分を静かに見つめる時間を作るといいと思います。奨学生レポートのために毎月の成果を振り返る作業、そこで書いてきたレポートの山は、実はかなり自分の支えにもなるので、期日までに出しましょう(自戒も込めて)。またこの奨学金の更新審査などを含め、大きな不安や悩みがある時はひとりで抱え込まず、信頼できるメンターや友達、家族と話しながらじっくり解決を目指してください。

皆さまのますますのご活躍をお祈りしております。

小宮貫太郎

1年目の夏休みにインターンとして働いていた英字新聞社のオフィスで。初日に取り掛かり、3日間かけて書いた初めての記事がたまたま1面に載るなど、本格的な報道現場の経験をさせていただいた思い出の夏でした。

2年次に受講した“Solutions Journalism”(課題解決型ジャーナリズム)クラスのメンバーと。従来の報道のように、起きた出来事の5W1Hや社会課題を報じるだけ報じて終わりではなく、その問題の解決を目指すという新しいジャーナリズムのあり方を実践して学びました。

3年目の秋、単位互換インターンシップ制度で過ごした東南アジアのオンラインメディアでの写真。写っているのは、データジャーナリズム講習に一緒に参加したインターン仲間です。みんな英語を流暢に話していましたが、たまに会話についていけず、必要に駆られて少しだけマレーシア語を勉強しました。

小宮貫太郎
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