
まずは、会場となるポーランド国立ワルシャワ・フィルハーモニーの様子をお届けします。
エントランスを入って右手には、当日券を販売する窓口が見えます。審査当日は午前と午後の二つのセッションが行われます。朝10時に始まる午前のセッションの当日券を求める列は早朝4時ごろに始まり、17時開演の午後のセッションにも、5時ごろから並ぶ人がいるそうです。列に割り込もうとする人が現れれば周囲に動揺が広がり、各セッションの開始10分前に当日券の販売が始まると、残り枚数をめぐる緊張がエントランスに張りつめます。
ショパンコンクールの雰囲気を味わおうとワルシャワ入りした私でしたが、当日券の入手が想像以上に困難だったことから、日常的な音楽鑑賞とは全く異なる高揚がありました。少し覗くだけのつもりが日を追うごとに好奇心が募り、気づけばその熱に呑み込まれていました。
会場のホールは三階席まであります。天井からはシャンデリアが吊り下げられ、古典的で重厚な雰囲気を湛えています。
4日間にわたり計8セッションが行われる第二次予選で、私はそのうち3セッションに参加することができました。一階席の中でさまざまな座席に座ってみると、座る位置によって音の届き方が大きく異なることに気づきました。たとえば、コの字型に配置された二階席の張り出しの下では、まるで壁を一枚隔てて聴いているかのように音が遠く感じられる一方、前方の席では打鍵が伝わるほど音が近く感じられました。
また演奏者にとって心地よく演奏できるような音響効果がやや働きづらい特性も感じられ、およそ40分間の持ち時間の中で、後半に向かうにつれて次第にホールの響きを掴み、よりのびのびと演奏するコンテスタントが多い印象を受けました。
二次予選最終日の午前のセッションは、ポーランド出身のYehuda Prokopowiczによるバラード第2番で幕を開けました。続いて、中国出身のHao Raoは舟歌から始め、旋律のきめ細やかな表情を味わわせました。3人目の米国出身Anthony Ratinovは、幻想曲を組み込んだプログラムを明るく華やかに奏でました。
ピアノ一台に対してオーケストラ並みのマイクの本数が見受けられました
休憩の後、Miyu Shindoの名前が呼ばれました。進藤さんはスタインウェイのピアノを使用し、第二次予選の課題である《前奏曲》と《ポロネーズ》の中から、《24の前奏曲》と《英雄ポロネーズ》を演奏されました。
前奏曲の全曲演奏を選ぶコンテスタントは多く、中でも進藤さんの演奏では、前奏曲が内包する不穏や美しさが響き、より曲想のうねりが感じられました。映画『羊たちの沈黙』でバッハのゴルドベルク変奏曲のアリアが流れるように、美しい旋律はときに不吉な予感として囁きます。和音の一音が変わるだけで情景が一変する模様は、病弱な身体とともに、19世紀前半という革命や侵略を伴う激動の時代を生きた作曲家像を思い起こさせました。転がりゆく状況を見つめるショパンの目には、儚さや諦念、そして救いが映っていたかもしれません。丁寧なタッチで音をゆるやかに立ち上がらせ、調性や和声の移ろいに込められた機微を慈しむような表現が心に残りました。とりわけ重低音の豊かな厚みに支えられて進行するハ短調第20番のコラールが印象的でした。
前奏曲の陰影に満ちたドラマから一転して、《英雄ポロネーズ》の冒頭の駆け上がりは空気を軽やかに操り、新しい幕開けを感じさせました。自らのポロネーズのリズムに乗って、今にも踊り出してしまいそうな身体の躍動が観客席にも伝わってきました。
演奏後の客席からは万雷の拍手とブラボーが進藤さんに送られました。
続く第三次予選の課題は、《マズルカ》と《ソナタ》。故郷ワルシャワを離れパリに移ったショパンはポーランドのリズムを積極的に取り入れ、アイデンティティとノスタルジーを曲に宿しました。進藤さんの遊び心に満ちた躍動が、マズルカ特有のリズムをどのように舞い上がらせるのかがとても楽しみです。ポーランド国立ショパン研究所の公式ユーチューブではコンクールのライブ及びアーカイブが配信されます。
尚、第三次予選には進藤さんと同じく53回生の牛田智大さんと、卒業生で44回生の桑原志織さんも出場されます。牛田さんと桑原さんの演奏も会場で聴きたかったのですが、残念ながら当日券の入手がかなわず、公式ユーチューブにて拝聴しました。牛田さんは二次予選で、《マズルカ風ロンド》、《ピアノソナタ》第2番、《24の前奏曲》より19〜24番、そして《英雄ポロネーズ》と幅広い曲想を織り交ぜたプログラムを演奏されました。生き生きとしたアーティキュレーションによって、音楽の骨格がしなやかに聴こえてくるように感じられました。特に前奏曲 第19番は、旋律の奥に内声の歌が響き、熱を感じる演奏でした。
桑原さんは、《舟歌》、《24の前奏曲》から13〜18番、《幻想曲》 Op.49、《英雄ポロネーズ》を演奏されました。舟歌から始まったプログラムは、短調の曲想においてもその背後に温もりを感じさせる音の運びが印象的でした。幻想曲では、和音がふわりと浮かび上がり、その響きが広がっていく場面が特に美しかったです。
進藤さん、牛田さん、そして桑原さんは、いずれもスタインウェイのピアノを使用されました。同じピアノにもかかわらず、奏でられる音にそれぞれの個性が表れるところは興味深く、楽器の奥深さを感じました。
予選を通過したピアニストには次の舞台が与えられ、最終審査を経て順位が決定します。しかし深い思索の上に自分自身が発露された音楽は、言葉や数値を超えるものだと感じました。何よりもコンペティションという厳しい舞台の上で、弾けるように楽しみながら音を紡ぎ出すコンテスタントたちの姿に感銘を受けました。楽譜との対話の中から音のビジョンを見出し、それを実現するタッチの探求と、舞台で発揮するための日々の鍛錬を重ねるピアニストたちに心からの敬意を表し、このレポートを締めくくりたいと思います。
2025.10.14
レポート:アート部門52回生 中岡尚子
1999年生。ベルリンと東京を拠点に活動。録音再生技術のナラティブや虚構性に関心を持ち、音を通じて空間や時間、他者とのコミュニケーションを探る。東京藝術大学音楽学部音楽創造環境科卒業。ベルリン芸術大学サウンドスタディーズアンドソニックアート修士課程に在学。