2019/02/04

國清 尚之 活動レポート

2019/02/04

國清尚之

國清 尚之 Naoyuki Kunikiyo

モダニズムが作り出した世界がフレームとなることで、人々の自我は都市の風景に小さく表出している。これらを発見し空間に転用することは、複合性と瞬間性に建築という形を与えるだけでなく、その町の営みやしきたりや文化を紡ぐ試みでも…

最近考えている事を4つお話しします。

1). ナワバリについて
10月のある日、寮から学校への通学路にある芝生に縄が張られていました。ある家族の牛たちがそこへおよそ3週間放たれて、草を食していくわけです。その縄張りによって内側の植生といった場の状態と同時に、僕の通学路の大きさが変わります。縄張りは、本来的には自己の領域を防衛する行為ですが、副次的に付随してくる場所の資源を可視化する行為でもあります。コンテクストの溢れる現代において、この原初的な行為はとても贅沢に思えるのですが、この副次的価値を如何にして建築は高められるのでしょうか。

2). 現象的複数性について
遠くに浮かぶ山並みや定時的に鳴る鐘の音のように、いま自分の目の前で起きている事柄とは別に私の中に影響を及ぼす存在をリヒテンシュタインでは良く感じます。こうした物理的には無関係な二つの事柄が、主観的にある人の中で像を結ぶ特性を現象的複数性と呼び、スタジオ課題を通してこの透明性について思考しています。消失しても良い主役とそれを前提とした事で躍り出る消えない脇役という構図によって、建築の部分を統合していくわけです。

通学路に出現したナワバリ

スタジオ課題で制作した1-10のペーパーモデル

3).映画CM研究について
私は、映画を語れるほど映画通ではないのですが、映画のCMはとても好きです。1分30秒の映画CMには、本編のテクストの崩壊とそれらを再構築する際の論理が本編から独立していながらも、素材は本編に依るわけです。それでいて楽しい。つまり、元素材を貼り合わせていく物語を偽造する事も可能で、二重の物語を誤読させられるわけです。この仕組みを探求する事で、建築設計の方法論の一助となる気がしています。

4). DorA研究について
私は、死は自他ともに終わりを意味せず、「生きているからこそ、そして死してなお」という感覚を自分が持っている気がしています。卒業制作で墓を設計して以来、死や生(DorA)について常に考えるのですが、今の私は「誰かが死ぬ事」と「会える距離にいない人と連絡を取り続けない事」の違いが分からず、どんどん死という事象が他の日常的な事象と等価になっていく感じがしています。7月にロンドンで死や生に関する歴史文章を823ほどアーカイブ化したのですが、かつて人はどう死と生を扱ってきたのか調べることから始めています。

caumasee lake

消えない脇役モデル