2026/08/24

富田ネオ 卒業レポート

2026/08/24

富田ネオ

富田 ネオ Neo Tomita

立体物を主な表現媒体とする。どのような立体物が彫刻性を持ちうるのか、また古代ギリシアの彫刻からニッパーの持ち手のグリップといった形態まで、いかなる文脈でそれらが連続し得るのかといった可能性を探究する。さらに、「第三技術論…

ビッグ・ベンが何だかも知らないまま、4年前の僕はロンドンに到着しました。知り合いもほとんどいなければ、空港から街の行き方の見当すらつきませんでした。

そんなアートのことも、ましてや外国で1人で生きていくことに関して、右も左もわからない状態だったことを考えれば、この4年間は人生で最も衝撃的で、かつ鮮やかにも過ぎ去る嵐のようでした。僕は普段、ロンドンではあまりスマホを使わない方なのですが、そのおかげでアプリで調べなくても、大体のアンダーグラウンド(地下鉄)での行き方などがわかるようになり、ロンドンに少しずつ慣れていきました。

17歳の春、つまり高校2年生の時に、僕は海外留学についてぼんやり考え始めました。都立総合芸術高校の受験勉強を始めた頃から考えると、もうアートを始めて10年ほど経ってしまいます。しかし、その過去の時間がまるで1年だったと錯覚するほどに、この留学生活は非常に濃密なものでした。僕は大学1年生から2年生に進級する際に、ありがたいことに財団の奨学生として迎え入れていただいたのですが、正直言って、奨学生となるまでの過去2年間、僕はロンドンという環境に、そしてロンドンのアートの枠組みに慣れることに必死で、自分がどのような座標にいるのか、自分はどのように進んでいきたいのかがあまりにも抽象的でした。特に大学1年生、つまり2年目はあまり学校にも行けずに、自分の生活や将来のことばかり悩んで、自宅で塞ぎ込んでいました。

しかし財団生となる機会に恵まれ、僕はその時点でどこか変わらなければならない、という決意ができました。財団生となった以上、同じく財団生である先輩方と並んでも恥ずかしくないぐらいのアーティスト、そして人間にならなければならない、と。

そこから卒業までの2年間は、それまでの2年間をキャッチアップするほど忙しい日々になっていきました。自分の中で大きかったのは、転居をしたことです。1年生の頃は、学校からも遠い長閑な場所に安寧を求めるように、仲のいいフラットメイトと共に暮らしていたのですが、彼らの諸事情によって、僕は突然1人で住む家を探さなければなりませんでした。やはり一番年下で英語もできなかった僕にとって、生活のほとんどは彼らフラットメイト頼りでしたが、そのサポートがなくなり、僕は実質的にひとり暮らしを始めることになりました。新居は灰色で、日光もほとんど入らないような小さな部屋で、住民たちはほとんど会話せずに生活しているような場所でした。そして何より、Wi-Fiが付いておらず、設置するような金銭的余裕がその時の僕にはなかったために、インターネットすらない、孤独とも言えるような生活が始まりました。しかしそれは悪いことだけではありませんでした。学校に徒歩で行ける距離に転居したので、僕はほぼ毎日学校に入り浸るようになりました。ちょうどそのタイミングで同時に奨学生となることができたため、僕は一層自分の研究に力を入れることができる環境にありました。その日々を、まさにキルケゴールが代弁してくれているかのようでした。「人間を測る物差しとは、他者との理解を欠いた状態で、どれほど長く、またどの程度まで孤独に耐えうるかということである。生涯を通じて孤独に耐え、永遠の意義を持つ決断においても孤独に耐えうる人間こそ、人間という存在の動物的な定義を体現する幼児や社会的な人間から最も遠く離れた存在である。(キルケゴールの日記より、意訳)」

ロンドンの自宅

生活はまるで実存主義的な実践のようでした。それまで誰かに甘えて生きてきた僕は、この時点でほとんど全てのことを自分だけで決定して進んでいかなければなりませんでした。それは、「このような作品を作るとき、どの素材を使うか?」から、「どの思想がサポートされるべきなのか?」、あるいは「どのブロードバンドと契約すべきなのか?」ということまでです。そのような日常的な小さな選択から、人生に関わる大きな選択まで、自分で決定していく、という主体性の意識が、僕に現在の思想を与えてくれるのみならず、さまざまなことをやり抜く胆力を与えてくれました。それは皮肉にも「彫刻的」であったと言えるでしょう。つまり、一つの自然的な状態の大理石が切り出され、運び出されて職人の手に渡り、彫られていく中でまるでヴェールを剥がされていくように、その本質的な形態を露わにしていく、というプロセスです。そしてその発想は僕の研究の姿勢にも直結していきます。ヘーゲル的な止揚は上昇的な方向性を持ちますが、この彫刻的なプロセスの中で、僕はまさに理想や安寧を否定して、その曖昧な形に対してより具体性を付与していく作業を行なっているようでした。高校2年生の、図書館でぼうっと思いついたようななんとなくの考えは、ロンドンの生活を通してでなければ具体性を獲得し得なかったでしょう。

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一見「財団のサポート」と聞くと、経済的な側面のみが強調されると思いますし、実際僕もそのようなイメージを持っていました。しかしながら、実のところ、僕はそれ以外にも多くのものを財団からいただきました。

もちろん、経済的援助は僕が卒業まで漕ぎ着けることのできた最も大きな理由ですし、何かプロジェクトを終えたご褒美として美味しいご飯を食べることを許してくれるような、そんな精神的余裕も与えてくれました。

ですが、僕の中でまず一つ大きかったこととしては、財団生との交流でした。特にロンドンに在住しておられたアート部門の方々には交流が多い人もおり、彼らと意見を交わすことは僕がいかに狭い世界に生きていたかというのを自覚させられるようでした。幾人かの方と親密に交流させていただき、会話をしていく中で気づいたことは数え切れませんし、それらの気づきは僕の実践に大きな影響を未だに与えています。

もう一つ、僕が財団に所属していて感謝すべきだと思ったのは、レポートの制度です。もちろんSNSではありませんので、いいねやコメントなどはできませんが、それでも実際に財団の関係者の方や他部門の奨学生の方に「レポート読んでいますよ」と言われると、自分が1人ではないような気がしてとても嬉しかったですし、自分も他の方のレポートを読んで勇気づけられました。何より、なかなか個人では、毎月自分がしてきたことを振り返ることが難しいです(少なくとも僕にとっては)。しかしこうした機会を与えられると、しっかりと記録に残せて、ふとしたときに自分を見返すことができました。

そして何より、アート部門に成果展のプロジェクトが発足したことが自分にとっては大きな経験となりました。もちろん僕は先輩方が作ってくださったすでに土壌があるところに半ば滑り入るような形で参加しましたが、それでも第一回という立ち上げに関われたのはアーティストとしてのみならず、自分をまた一つ成長させてくれました。第二回でも、第一回と比べると少ない人数の中、目標に向かってそれをどう実現するのか、といったただ美大生でいるだけでは決してできないような、ある意味実務的な経験をすることができ、今後のキャリアについて考える転換点ともなりました。

卒業制作の搬入現場

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先ほども言及したように、僕はほぼ毎日学校に入り浸る中で、そのほとんどを図書室で過ごしていました。もちろん各生徒にアトリエは割り当てられていましたが、作品のアイデアを考えたり、設計図を作ったり、モデリングをしたり、リサーチをしたり、エッセイを書いたり、課題をこなしたりするのは図書室だったので、僕にとっては図書室の方がアトリエのようでした。その中で、僕は「彫刻の意味」に始まり、「ひたすらなる」、「神秘体験」、「ジャーゴニクス」、「第三技術論」といったアイデアを確立していくことができました。それらは単に思いつきで出てきたものでなく、そのほとんどは先行の研究者、思想家、哲学者によって僕が現実として持っていたものを否定され、では自分は何をまだ信念として持ちうるだろう?といった疑問から生まれてきたものです。

それは作品に関しても同じでした。もちろん、思い描いたイメージを実現するのが全てのアーティストの悲願でしょうが、それでも現実にはさまざまな壁が待ち受けており、ましてや学生という身分の僕にはそれはさらに大きな障壁のようでした。僕の作品の約半分には「諦念」という要素が含まれているのを認めざるを得ません。しかし、ただの諦めではなく、「では実際どうすれば実現できるのだろうか?」という転換もまた、この図書室で起きました。そして時には、そうした選択がより良い作品につながることもありました。つまり、「ひたすらなる」状態でいることとは、常に「それでも」という意思を捨てないことです。そのような苦しみや悩みが大半のような生活を送れたということは、僕にとってはこれ以上ないほどに幸せなことでした。

きっと留学という選択をしていなければ僕は未だに何かに頼りきりで生きていたかもしれません。確かに、図書室で一晩を過ごした後に見る朝焼けはとても悲しかったですし、それはキルケゴールの『さまざまな精神における建徳的講話(226)』にもあるような感覚でした。「しかし、苦難が自分の友であり、妨げではなく道であり、落胆させるものではなく高貴にするものであり、発展させるものだと信じることは、それ以上のことである。」

しかしそれと同じくらい僕にとって学びになったのは、孤独でなくなることもまた選択のうちであるということです。僕が日本人として生まれ育った以上、イギリスにおいてはどこまで行っても外国人でしたし、全ての人と真に交流できていたかは僕にもわかりません。言語的、精神的にも孤立を感じることはありました。しかしそんな中でも、完全には分かり合えないながらも、アートという共通点を通して、さまざまな背景を持つ人と触れ合い、時には彼らを助け、時には彼らに助けられました。そしてそれは日本人であっても例外ではありませんでした。そしてイギリスという土地以外にあってもです。よく知り合った人にも、よく知らない人にも助けられました。そしてそのような彼らの助けを感謝を持って受け取り、またそのような助けを他の人にも行う、ということはこのロンドンでの経験がなければできませんでしたし、それを受け取る方法もわからなかったと思います。そういう意味で、18〜22歳という時期に留学生活を送れたのは、僕にとって朽ちない宝となったと思います。

Clinical Workshop(Jargonics), 2026 / photo by Harvey Abbas