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7/27「大学卒業後のアーティストという生き方」開催報告

ーー先ほど塩田さんがテキスタイル展に参加したり、日本で活動するのにこんなにお金がかかると知った後に片道切符でベルリンに行かれた話について、その時日本の若い才能を売っていく制度的な弱さを感じたのでしょうか?何か覚えてらっしゃることはありますか?

塩田: そう。テキスタイルっていう意味で、私は糸を使っているんではなくて、空間に描くドローイングだと思って糸を使っているんですけれども、テキスタイルとか女性であるとか、そういう風にカテゴリーに分けるのが日本はまだ好きなんだなと思いました。現代美術に対する地盤がないということを感じたんです。日本にいるときは女性であるということにすごくコンプレックスを持っていたんですが、ドイツに来てマリーナ・アブラモヴィッチやレベッカ・ホルンなど、女性アーティストに会って授業を受けるうちに、徐々に女性であるということに対してのコンプレックスがなくなっていって、アーティストとして、私として作品を作ればいいんだ、と思えるようになりました。

100人いれば100通りの生き方があり、地球上に70億人の人間がいれば、70億通りの生き方や意見もある。その中で、やっとアーティストという職業の存在が認められるんじゃないかとも思うんです。海外に出て、色々な人たちと交流していくうちに、すぐ女性アーティストであることのコンプレックスがなくなり、私は私であればいい、と思えるようになりました。

 ーーちなみに塩田さんが日本の制度でコンプレックスを感じられてから30年程経ちますが、今国内では、その状況はどうなっていますか?秋元先生に、もしご存知であれば、ご意見を伺いたいです。

秋元: 残念ながらあんまり変わってないのかもしれないね。この間も今と同じような話があって、若い30歳になったぐらいの作家さんで、いい作家さんなのね。すごくいい作家で、本人は海外でやってきて、それでいまだに海外の美術館からも引きがあり、展覧会も多いんだけど、日本でようやく展示するようになってきているのに、扱ってる素材でカテゴリーされていることにすごく本人も不満を持ってたりとか、美術館っていうか美術を伝えていく側の方にまだまだスケールの小ささってのがあるというのは否めない。大きく反省しつつ、もうちょっと頑張らないといけない。

塩田: 私、金沢21世紀美術館で展覧会に4回参加していて、そのうちの3回は、秋元さんが館長のときに呼ばれています。その一つが「内なる声」っていう女性アーティストの展覧会だったんです。その時のオープニングレセプションで秋元さんが、女性のアーティストを呼んで展覧会をしてはどうかっていうことを学芸員の人に提案したら、みんなが了解しながらも心の中で怒っていた、「なんで女性なの?」みたいな感じで、目が怒っていました。という挨拶をしていたのがすごく印象に残っていて…。覚えていますか?
秋元: 覚えていますよ。21世紀美術館のキュレーターたちは、強い立派な人たちが多い中でやったんですけど、だからいまさら単調な女性アーティストっていう括りでやるんですか、みたいな。それはすごい言われたね。でも、やっぱりすごいタイムラグが日本の美術界ってまだあるので、やってみようよという話の中でやったっていう。

塩田: 私が一番覚えているのが、2008年の金沢のアートプラットフォームです。私、美大を卒業した後、展覧会はやっていたんですけど、作品が売れたことが全くなくて。インスタレーションが初めて売れたのが、卒業して12年後。旧東ベルリンで集めた1000枚の窓の作品だったんですけど、その作品がベルリンでもなくドイツでもヨーロッパでもなく、日本の金沢21世紀美術館でコレクションとして購入されたんですよね。自分でもとても嬉しくて、今までやっていてよかったな、続けていてよかったな、という実感はありました。
秋元: そんなに喜んでもらってよかった。

写真:左/塩田 千春氏 右/秋元 雄史氏

塩田: だって12年間ずっと作品が売れることがなかったんですよ!2001年の時に横浜トリエンナーレでドレスとシャワーを使ったインスタレーションを発表したんですが当時29歳で、これでもう大丈夫だと思ったんです。でもその後、7~8年、展覧会はできていたんですけど、作品が売れることはなくて。それでコツコツと助成金や文化庁の在外研修などに応募して、頑張って3年とれたんです。これで3年間は毎月30万送られてくるし、生きていけると思って。その後ドイツのソリチュードというアーティストレジデンスにも応募して、1年半の間毎月1000ユーロ(約13万)ずつ送られてくるから生きていける、という感じで…そうやって食いつないでなんとか生きていました。しかも2007年に子供が生まれて、展覧会をやっていたとはいえ、収入はプラスマイナスゼロですっていうのはちょっとダメかも…。そろそろアーティストっていう職業を確立しないと、と感じました。旦那はサポートしてくれましたが、姑さんには説明しにくかったですね。そういうときに、ちょうど金沢(21世紀美術館)から「インスタレーションを購入したい」って言われて、すごく嬉しかったです。
秋元: 相当でかいもんね。皆さんどれぐらいのスケールを感じてるかわからないけど、あれ、高さで言ったら10mはある?
塩田: 14m。
秋元: 14mか。1000枚と、相当な大きさでものすごく迫力のあるインスタレーションで、担当してた学芸員で、今部長やってる方が、塩田さんの仕事を本当に熱心にずっと追いかけてやっていて。購入委員会っていうのがあって、そこで外部の先生たちに説明しなきゃいけないんだけど、もう熱弁を振るって説得しきっちゃったから。でもそういう意味ではよかったよね。美術館にとっても良いコレクションができて、その後の活躍も我々は嬉しく見てました。
塩田: そこですごく助かりました。アーティストとしてやっていってもいいんだと思えて、救われたというのはありますね。
秋元: 迫力あったけどね、作家としての。
塩田: 本当に気が狂ったように旧東ベルリンの窓を集めていて。それが2000枚になった時「窓の作品を送ります」ってケンジタキギャラリーに窓を1000枚送ったんですよ。そうしたら物量が多過ぎたみたいで、朝の5時ぐらいに私に電話がかかってきて「窓が送られてきたけど、ここには保管ができない、ベルリンに送り返したい」と言われて、でも私が「それは日本でいつかきっと発表する場所があるから置いていてください」って言って置いてもらっていたんです。その後に21世紀美術館でコレクションになりました。ケンジタキギャラリーとは20年近い付き合いになるんですけど、その時にギャラリーに「なんとかなりましたよね」と言えてよかったです。

秋元: さっきも話に出てたけど、2001年のヨコハマトリエンナーレで長いドレスを初めて見た。すごい作家が出てきたんだなぁと。いま多摩美術大学の学長をやってる方で、埼玉県立近代美術館の元館長で、草間さんをいち早く評価した人でもある建畠さんという方とちょうど一緒に見てて、長い巨大なドレスを前にして「すごい作家が出てきたね」って話したのは鮮烈に覚えてます。
塩田: 私、学生の時に村岡三郎さんのアシスタントをやっていたんです。キュレーターの方が見に来たりすることもあるので、作家のアシスタントをやるのはきっといい経験になるだろうなって今でも思うんですけど、その村岡三郎さんは鉄の作品を作ることもあるので、溶接とかもやるんです。でも私、溶接をしたことがないし、村岡三郎さんに呼ばれてスタジオへ行ったのですが、女子ということで、嫌がられたんですね。でも私はやりたかった。アトリエは滋賀県の山奥にあって、男の人が4人ぐらいいて、一緒にアシスタントをやっていたんですけれども、そこのトイレがものすごく臭くて汚くて。このトイレが嫌だと思って、私はトイレ掃除を始めたんです。そうしたら認められて。その後も頼まれてご飯を頑張って作ったこともありました。そうしてだんだん認められていって、広島市現代美術館の搬入に呼ばれたり、メインメンバーになっていったんですよ。そのときに建畠さんにも会ったりしていて。トイレ掃除とご飯を作ることから始まったアシスタントとしての仕事でしたが、全然嫌じゃなくて、それを結構喜んでやっていて、気がつけば自分も溶接をやっていたり、楽しんでいました。あと、そこで認められたことで建畠さんがベルリンにわざわざ来て私の作品を見てくれて、横浜トリエンナーレへの参加に繋がったり…。そういったことがありましたね。
秋元: 初めに塩田さんを紹介したのは建畠さんだったの?
塩田: そうです。建畠さんです。
秋元: 建畠さんのキュレーションの中で紹介してるんだ?
塩田: そうです。建畠さんは、村岡三郎さんからつながったんです。
秋元: なるほど。今の話でもわかるように、さっき大学卒業してから作家になるまでの話があったけど、一方でどうやってチャンス作るかって言う時に、人間関係って狭い世界でもあるので、やりとりしていくっていうのは大事かな、いい作家とか、いいキュレーターとか、そういう人たちと。みんな人見知りだと思うんだけど、それでもやっぱり自分をできるだけ見せていくというか、目の前のことをちゃんとやっていくというか、そういうのは必要かな。

塩田: 変なプライドというのはないんですよ、私。例えば、瀬戸内トリエンナーレとか直島で仕事を受けた2010年ごろの話で、国際芸術祭があって瀬戸内にポンっと放り投げられるように行かされたんですが、何にも無い所だったんですね。豊島(てしま)は300軒も空き家があって、ホームセンターも何もなくて、フェリーも朝と夕方しかないんですよ。そこで、どうやって作品を作ればいいんだろうと思っていると「島の人と仲良くしてください」って言われて。「でも、どうやって仲良くしたらいいんですか?」って尋ねたら「とにかく挨拶してください。道ですれ違ったら、おはようございますとか、とにかく挨拶してください」と。「あと、島の人がすごく親切なので、いろいろと助けてくれることはあるかもしれないけれど、絶対にお金で返さないでください。何かお返しっていうことで、返してください」と、その二つのことを言われて。「あ、そうすればいいんだ。」と自分でも受け入れることにしました。そうすれば、私の作品は島にとってお荷物ではなくて、宝物になるかもしれないと思って、すごく頑張って作ったんですよね。今またそこで新しい作品プランを考えなきゃいけないんですけれど、でも(当時の作品は)島の人に愛される作品にはなったと思います。だから変なプライドって持たない方がいいなって思います。

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